NO.10420786
なんで自殺しちゃいけないの?
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0 名前:しゃべり名無しさん:2003/12/03 16:04
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自分の命なんだから自由じゃん
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34 名前:匿名さん:2003/12/09 07:01
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死にたいなんて高1の自分もそうだったけど随分おばかちんなもんで、
なのに死にたい理由を聞くと一見もっともらしいこと言うじゃん。
だけど自己の正当化なんて年とりゃ誰でもできるんだよな。
そういうこと本人の前で言ったらまた塞ぎこむでしょ。
なぜってこれ以上傷つきたくないからよ。
そりゃー人間は人間らしく生きねばならんだと教わってきたさ。周りは汚くても少なくとも
自分だけはまじめに生きようと思ったさ。
だども生きれば生きるほど自己矛盾にぶちあたってよー、もしかしたら自分に
人間らしく生きることはできないかもしれない、ああ、自分って一生幸せに
めぐりあえないのかしらん、ってなもんでアンテナのスイッチをパチパチ切っていくわけさ。
これ以上自分が傷つかないよーに。
こーゆー人が都市化が進むにつれ増えてきたわけさ。
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35 名前:匿名さん:2003/12/09 07:01
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んじゃこいつらを苦しめる「人らしい生き方」ってモデルを作ったのは誰じゃい。
それがデカルト様とフランス・ドイツの思想家様方よ。
いやー、理性を発達させて身体を抑え込もうなんざ、無理なことをできると思ったもんだ。
しかしこいつらの理論に根本的な矛盾が生じるようになってきたと言うわけよ。
デカルトの根本原理:私は存在するか?に対してソシュールの答えは「ノー」。
なぜって私というものを「なぜ?」「なぜ?」と問いただしてゆくとなーんも残らなくなっちまうからよ。
こりぁするってーと自分というものは存在しないらしい。デカルトの言う自己が存在するとする。矛盾。
よって自己は存在しない。でも自己はあるやんけ。いや、それが思い込みっちゅーもんじゃ。
自己は他者との関わりのなかでつくってくもんなんじゃー、と東洋哲学と構造主義は語る。
しかし他者と関われないモンはどうすんじゃい、ヒッキーはどないして自己を確立すりゃええねん
と構造主義的人間観すら限界がさしせまっとる。
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36 名前:匿名さん:2003/12/09 09:07
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んあー、難しすぎてまとまらなくなってきたぞ、
「生死二元論は誤っている」とか「世界は仮想現実であるby量子力学」とか
「理由を出した時点でそいつは死んでいる」とか
「理性本能二元論でメディアコントロールは解決できない。おまえには思考がないことが
まだわからないのか」とか
「自暴自棄の人間はディベートには勝つが本性ではそんなことさらさら思ってない」とか
「死にたいに正当な理由を持ち出す時点で未熟」とか
「価値がないものしか資本主義社会では価値にならない」とか
講演会のなかでとったいろんなメモが見つかってきて大変になってきた。
自殺問題の何が難しいって、自分の悩みを語る人は自分の本心を他人はおろか
自分にすら隠してしまっているところなのだ。
それは自分の心を言語化できるほどの知能がないからなんである。
人間にとって自分の考えを言語化を通さず思考をすることは不可能なのだ。
あられとみぞれの美しさの違いをカリフォルニア少年に「語れ」といっても
殴打の応酬を受けるのと同じく
生と死すらまともに知らない人間が生きるってこんなもん~なんて断言が
できるわけないってことなのだ。
また観念としての生と死は勝手に突っ走りすぎてもはや現実世界に応用がきかない。
自分にとっての死について考えるだけで手一杯である。
多方面に知識をこさえてながら自分が対峙している問題にアプローチしていくしかないんである。
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