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【大塚・池袋】武蔵高等予備校について語ろう【かつての名門】
0 名前:元、武蔵生:2006/11/25 18:40
武蔵高等予備校の板が壊れているみたいなので、新たにたてました。
私は88~90年に通っていました。授業の後、巣鴨図書館で勉強した日々が
懐かしいです。
実は11月23日の時点で武蔵のホームページに冬期講習情報がアップしていません。
もしかしたら、今年度限り?と感じてしまうのは私だけでしょうか?
285 名前:匿名さん:2021/08/29 17:38
昭和56年(1981年)4月から1年間お世話になりました。予備校へ上がる坂の突き当たりにあったカルソーというスパゲティ屋が思い出にあります。キッチンABCには今でも時々インディアンライスを食べに行きます。地方から出て田端寮で苦楽を共にした仲間、元気にしてるかな。
286 名前:投稿者により削除されました
287 名前:匿名さん:2021/09/01 01:45
武蔵予備校(正式には武蔵高等予備校という名称でしたね)に入って、
成功した人或いは不本意な結果になり泣く泣く第一志望以外の大学に
進んだ人又は私のようにすべり止めに行く気にならず文系なのに二浪
の道を選んだ人色々の人生があったと思います。私は東北の田舎から
野望を抱いて武蔵で頑張って一旗揚げようと思っていたのですが見事
にその野望は打ち砕かれました。二浪後一応第一志望校に合格出来ま
したからまだマシな方でしょう。武蔵は人を選ぶ予備校でしたね。率
直に言って。ただそんなことより、私にとっては初めての東京生活が
武蔵での浪人生活であったこと、自分の運命を切り拓くべく必死に勉
強に打ち込む全国から集まった同年代の人達と時空を共有出来たこと
はその後の人生に影響したことは確かです。昭和51年に1年通った現
63歳ですが私にとって正に青春真っ只中の期間でした、かけがえのな
い。
288 名前:匿名さん:2021/10/08 11:54
1993年1年通いました。
英語の奥山先生、神田先生。日本史は篠原先生にお世話になりました。
先月、ふと大塚駅で下車しましたら、だいぶ駅前が開発され驚きましたが、ホープ軒は、元気に営業していて嬉しい気持ちになりました。
昔昔の思い出ですが、やはり武蔵が無くなったと聞くと悲しいです。が、掲示板で元気を貰いました。先輩方ありがとうございます。
289 名前:令和。:2021/11/19 13:44
あの、大塚駅からの、坂は 何んだったん だろう。
290 名前:匿名さん:2022/01/05 03:41
人生の一コマ。
291 名前:匿名さん:2022/01/08 13:40
紛れもなく「青春の坂道」だった。
因みに、1976年3月に尾崎奈々の青春の坂道がリリース。松本隆作詞、森田公一作曲。
予備校の寮への入寮が1976年の4月初め。それからあの坂道を下って上った一年は
色んなものが濃縮された年月だった。
292 名前:1971年卒業:2022/01/09 12:10
ずーと予備校の名前を思い出せなくて、今日ふと思い出してググってみたらここに当たりました。
皆さんよく講師の方々の名前を覚えていらっしゃいますねぇ。
ここを読むと、相性のある予備校だったと書かれていますが、自分には良く合っていたと思います。
自分の場合、浪人生になるまでまるで勉強をせずに生きていましたが、予備校に通った1年間で
まともな受験生レベルまで引き上げてくれました。
入学当初F組(最下位クラス)だったのが卒業の時はC組でした。
入学案内に書かれていた、「予備校から帰ったら、毎日その日のスケジュールを立てろ」という
教えが的確なアドバイスとなりました。
先生方の名前は全く覚えていないのですが、
タバコ好でえらく怖い英語の先生とか、清少納言は意地悪な大女だったとか
学校では教えてくれないような事を教えてくれる古文の先生などがいて、面白かった。
予備校はもうなくなってしまっていたんですね。残念です。
293 名前:元城北予備校1977年卒業:2022/01/12 09:30
懐かしいですね。私も縁があったら武蔵予備校に通ったかもしれませんが、試験日と
合格発表が早かった城北の方にしました。受験生活序盤に1度だけ武蔵の公開模試に行きました。
教室の中に城北にはない標語が貼ってありました。「乾坤一擲 必勝の年」という言葉でした。
なぜかその標語を気に入った私は、それを受験時代のスローガンにしました。
294 名前:匿名さん:2022/01/30 15:09
武蔵予備校に通っていました。昭和51年度。
ハッキリ言って受講生の質で持っていましたね。
学生一流。講師二流。経営体質三流。
予備校はやはり営利事業です。学校じゃありません。
学生の質に頼って営業努力をしない企業は潰れるを地で行きました。
295 名前:匿名さん:2022/01/30 19:55
武蔵廃校ですか...
残念ですね
英語の奥山先生、国語の吉田先生、今野先生、日本史の菅野先生にはお世話になりました
大手に引けを取らない先生方だったと思います
武蔵の商業的でない感じが好きでした
296 名前:匿名さん:2022/02/10 05:28
予備校って結局講師ですよね。
いかに受験生の旗振り役に徹することが出来るか。
この観点からすると武蔵は二流の域を出ませんでしたね。
駿台には採用されず、あるいは駿台をクビになった講師の行き着く先
って感じがありました。だから生徒の質で持っていた予備校でした。
つい最近まで存続出来たのもかつての生徒がそこそこ優秀だったこと
の遺産です。
297 名前:匿名さん:2022/02/10 05:30
そんな遺産あんのか?w
298 名前:匿名さん:2022/02/10 05:30
>>297
武蔵からは昔からいい大学に入れる人が多い→口コミで代々伝わる
→それは多くは受講生のレベルが高かった結果→だから予備校自体の
中身は劣化しても相変わらずその評判を信じて毎年一定数の受講生が
集まり存続出来る。これはやはりかつての受講生が残した遺産でしょうね。
299 名前:匿名さん:2022/08/08 14:00
暑い夏ですね。皆さんお元気でしょうか。
夏といえば夏期講習ですね。普段の授業とはちょっと違った雰囲気で何となくリフレッシュされたような感じもあった事を思い出しました。とても懐かしい。勿論、浪人生にとっては夏も冬もないわけですが、夏はまだ入試本番迄それなりの時間があり、一方東京での生活も一定の時間がたって慣れてきて、ちょっと落ち着くような気もしてしまう不思議な時間帯でありました。いずれにしてもあの暑い夏を懐かしく思い出す日々です。
300 名前:匿名さん:2022/10/22 20:56
先週久々に奈良を夫婦で訪問、二泊三日の小旅行でした。
春日大社への参拝時、日本で最も古い萬葉植物園があり、そこで予備校時代に受講した中西先生を懐かしく思い出しました。
301 名前:子青◆NWZlMDI5:2022/11/12 10:38
武蔵高等予備校、懐かしいですね。
私は昭和49年度(1974年度)の1年間、国立理系に通いました。
電車で通っていましたが、毎朝大塚駅から走っていました;駅前で危うくタクシーに轢かれそうになったことも。
数学の吉永先生は、捻った問題が多かった印象です;早稲田の先生とか。
英語の藤川先生は、身なりがダンディーでしたね。授業中に質問をされて、私が答えた時に、「私もそう思う」と言って頂いた時は、とても嬉しかったです;東大で教えられていたとか。
万葉集の研究者として名高い古文の中西進先生は、古文の内容はさっぱり思い出せないですが、「選択問題の正答は、真ん中やや前のことが多い」というアドバイスだけはしっかり覚えています。
物理の先生(あいにくお名前は失念しましたが)は、黒板に字を書き間違えるといつも、「おっとどっこい」、と言われていました。
暇なときに大塚へ行ってみようと思い、Google Map の street view で見てみましたが、景色が一変していて、予備校があった場所がどこだか、さっぱり見当がつきませんでした。
どなたか、住所か、今現在の建物を教えて頂けませんか。
宜しくお願いします。
302 名前:匿名さん:2022/11/21 16:35
懐かしい思い出の先生方とのやりとりはまるで昨日の出来事のようですね。有難うございます。
かつての武蔵高等予備校の校舎所在地住所は豊島区北大塚1-13-17です。現在は日本綜合地所大塚ビルとなっています。尚、Googlemapで検索すると、同所には旧武蔵高等予備校という記載もあります。隣はこれも懐かしい巣鴨公園です。お時間があれば是非訪ねてごらんになったらどうでしょうか。
303 名前:爺酔言:2022/11/28 22:42
昭和45年国立理系に通学していました。11月下旬、当時はこの時期が最終の模試の返却日でした。全て25%~判定でした。直前の模試が最悪。呆然としてパチンコ。これも大負け。帰宅途中、巣鴨駅前では号外が配られていました。三島由紀夫事件です。社会状況と浪人の一人である自分。何とも不可解な思いで帰宅したことを記憶しています。
この時期になると教室も徐々に閑散としてきました。不安、焦りで落ち着かない日々が過ぎ、とうとう、広井校長に相談。すべてのデータをご覧になって、「工業高校出身で、よく頑張ったね。必ず、すべて合格するよ。」 この一言で迷いは消え、最後まで通学し、その通りの結果になりました。
数学の吉永、平田先生、英語の藤川先生には受験勉強から一歩先をご教示いただき、世界史の工藤先生からナチス台頭時の欧州の、特にミュンヘン会談に関して熱っぽい講義をしていただきました。最近のウクライナにも共通することも多です。現代文の中西先生の校名の「高等」の由来のご説明も煩悩を刺激されたものです。
確かに思い出深い一年でした。今は亡き両親に感謝。
304 名前:大塚駅:2022/12/01 09:55
25パーで受かったのが興味深い話ですなぁ
305 名前:匿名さん:2023/01/11 12:44
大塚・武蔵高等予備校(Musashi Coaching Collage Tokyo)- 懐かしいですね。私は1977年(昭552年)4月から一年間武蔵(理系クラス)のお世話になりました。還暦を過ぎた今,自宅の書庫の書籍の断捨離していたところ何と当時私が使っていた武蔵高等予備校時代のテキストがでてきました。懐かしく思いテキストをペラペラと捲っていたところ裏表紙内面に当時の受講した時間割表が貼付されていました。同世代の武蔵高等予備校出身者の方々が懐かしく思い出されるかも知れないのでご参考までに「教科・担当講師姓」を記載しておきます:
【英語】
英訳A(松浦)・英訳B(藤川)・英訳C(贄川)・英訳D(伊藤)・英訳E(佐藤)・英訳F(太田)・英訳G(古谷)・英訳H(洲協)・英作A(一丸)・英作B(横田)・英文法(?)
【数学】
数Ⅰ(吉永/渡辺次/伊奈)・数ⅡB(平田/田制/森河)・数Ⅲ(滝本/青柳/長野)・数演(須賀/桃木)・追数(中田)
【理科】
物理(鈴木/林野/石川)・化学Ⅰ(矢沢)・化学Ⅱ(木村)
※【国語(現文/古典/漢文)】【社会(日本史/世界史)】などを受講していましたが割愛します。
※ どなたか上記の講師で当時受講された方はいませんか?講師に対する思い出などがあれば教えてください。
306 名前:匿名さん:2023/01/13 11:05
1975年度に国立理系コースに在籍しておりました。いまでも自己紹介の時に「武蔵高等予備校卒」と言います。
307 名前:大澤正夫:2023/01/25 10:03
1973年(昭和48年)にお世話になりました
英語の松浦、贄川、藤川先生
数学の吉永先生
古文の中西先生
漢文の新垣先生
日本史の風間先生
などなど 忘れられないですね
時々 このサイトを訪ねますが 当時を知る方々の書き込みが多く 嬉しい限りです
高校時代は ほとんど勉強しなかったので 午前部が受からず 無試験の午後部に通いました
武蔵での勉強が功を奏し
某私立大学薬学部に2番で入学しました
その後紆余曲折を経て
現在は歯科医師をしております
あれから丁度半世紀 当時の友達に会いたいですねぇ…
港北高校(足立区)出身の 須釜くん
高輪高校(港区) 出身の (郡山の日大に行った)石橋くん、高田くん
私が好きだったのは浦和から来ていた午前部の巣山さんでした
みんなに会いたいですねぇ
ご存じの方がいらっしゃったら書き込みお願いします
308 名前:匿名さん:2023/01/25 13:19
みんなコロナで○にマスタ
309 名前:匿名さん:2023/01/27 09:47
大塚駅近くにあった、隣の啓成予備校にいました
たまに単科講習に武蔵に行きました
生徒の人数が全然違いましたね(笑)
310 名前:匿名さん:2023/03/30 21:11
大塚北口の天祖神社のちょっと先にある桜並木、本当に綺麗ですね。
もうすぐ4月。地方から4月早々に上京して大塚の寮に到着した47年前のあの晩は妙に生暖かい風が吹いていた事を今でもよく覚えています。そして翌年3月、皆が入試を終えてそれぞれの場所に散っていった頃の事も...。
311 名前:michizou:2023/04/29 17:52
フェイスブックで旧大塚駅の写真を見たのがきっかけでした。駅北側で金色に輝く角萬、予備校と思い出が蘇り、ここに辿り着きました。こんな掲示板があるのは驚きで、不思議な縁を感じます。
私が通ったのは昭和47年でした。
中西進先生が授業で取り上げた詩集「萱草に寄す」で立原道造と建築家という職業を知り、新垣先生の「大学は広いぞ。何しろ構内には蒸気機関車が走っている」の言葉を半ば信じてその大学に進みました。そして今も建築設計を生業としています。
312 名前:匿名さん:2023/05/06 12:20
武蔵高等予備校での一年間は今振り返っても正にわが青春でありましたが今更ながらの後悔も。
それは、なべつぐ、あの数学講師の渡辺次男先生の講義を受けなかった事です。私は文系ではありましたが、第一志望校の国立の入試で数学が必須且つ配点も高かった事、その割には数学嫌い、結果として数学が不得意の受験生でした。予備校時代は寮生でもあり、理系の友人も多数いたにも拘わらず、のんびり屋の自分は渡辺先生が武蔵で教えていらっしゃる事すら知らなかった。情報に関して誠に怠惰な受験生でもありました。 一方、当時旺文社のラジオ講座もつまみ食い的に聞いており、ここで渡辺先生の講義を受けて初めて渡辺先生を知り、当時発売された、あの伝説の袋とじの「あすなろ数Ⅰ」、「あすなろ数ⅡB」も購入してコツコツ積み上げていくうちに、徐々に「分かる」から「出来る」ようになりました。
それにも拘わらず、不覚にも先生が武蔵で教えていらっしゃる事を予備校生時代は最後迄知らなかった、という間抜け振りがつくづく悔やまれます。直接生のお声を聴きたかったな、との思いが今でも消えません。ラ講であの若干の東北訛り(?)が入り混じった受験生を励ますお話がそのまま人生を語る事にも通じていたような気が致します。
後年、ネットでのなべつぐ先生の予備校講師としての生き方や生徒への接し方を知り、その人生にも大いに惹かれました。ネット情報が正しいとすれば、先生は人生の最後にフィリピンに渡り、そこで人生を終えられたとの事ですが、何故そうされたのか等々、興味は尽きません。
313 名前:ヤナギの店員:2023/07/10 18:53
81年午前、私大選抜クラスだったような記憶しか残っていません。もう還暦を過ぎ再雇用となり、残りの人生を趣味の音楽と家族サービスで過ごそうと設計しているところです。たまたま、大塚のライブハウスに行く用事ができたので予備校時代を思い出して検索していたら、たらこのような場ができていて懐かしさと寂しさで見入ってしまいました。当時は、午前中の授業を受け、お昼からは近所の喫茶店「ヤナギ」でバイト。下宿に帰って勉強という毎日でした。今となっては、良い思い出です。
ヤナギのママとお母さんには大変お世話になりました。それと、その常連だった日比谷高校のみんなはどうしてるんだろう。懐かしいです。
314 名前:抜群の高志の国文:2023/11/10 03:19
勿論、共通 時代。吉永。なべつぐ。は 当然
藤川さん。を語らぬ者は、モグリか?まだ 令和館長の お顔を拝してからら、歳は替わらぬ? まさか、彼の世から
マイクを向けて、此の点に、就いて。は無いよね!
315 名前:匿名さん:2023/11/13 01:14
藤川さん、英語の先生でよく覚えています。同先生の英文解釈の授業を一年間受講しましたが、 日本語訳が非常に巧みでありました。こなれた日本語で意味がよく分かる訳、しかし、全くの意訳調にならずに、大学入試の和訳としては非常に上質な日本語として訳されていたのをいまだに記憶しております。お声もとてもよく通る声でしたね。もう一度あの授業を受けてみたい。
316 名前:匿名:2023/11/25 06:15
吉永先生。懐かしいですね。確か数学の先生だったと思います。間違っていたらごめんなさい。私にとってはもう47年も昔の話ですが、私は現在も現役でニュージーランドで働いています。今回一時帰国。なぜか予備校近くのカレー屋さんを思い出してむしょうに捜して行きたくなりましたが、もうないですよねぇ…。本当に速くて安くてボリュームあって美味しくて最高でした!お昼頃は予備校生でごった返していました。マスターも奥さん?もお手伝いさんも若々しくて頼もしかったです。誰かご存知ですか?
317 名前:大澤正夫:2023/11/26 21:44
315さんへ
そうでした そうでした 藤川先生 ダンディでもありましたよね
The land of Hokkaido evokes me that… というテキストの文章の一部を あの通る声で音読されたのを今でも覚えています
316さんへ
私の在籍が48年でしたから3年くらい下ですね
そのカレー屋さんは『モナ』ですよ 武蔵への坂道に向かう角にあったお店です
確かにあそこのカレーはマイルドな味で美味しかったですね
私ももう一度食べてみたいですねぇ…
上野駅広小路口にある『クラウンエース』行ってみて下さい
ここのかれでしたら『モナ』を彷彿とさせるものがあると思いますよ
営業時間は11:00~14:00 16:00~18:00 です(日曜祝日は11:00~14:00だけ)
318 名前:匿名さん:2023/11/27 02:19
私が覚えているのは、
グルテン(?)のワズミ先生。
古典(?)の日下先生。
319 名前:今は塾講師:2023/12/18 13:44
'84年(s59)にお世話になりました。
数学の吉永先生、最初の授業で「吉永小百合は私の娘です」と言ってみんなが「えっ?」ってなったら「ウソです」と言っていたことを忘れません。
夏期講習で英語のテキストを忘れてしまい、仕方なく見ず知らずの話したこともない隣の男の子に「すみません、テキスト見せてください」とお願いしました。なんとドラマのように、その後その男の子と付き合うことになり…♡
2年半で破局となりましたが、今では懐かしい思いでです。
320 名前:匿名さん:2024/01/26 01:27
かつての寮生ですが、今の時期で思い出すのはとにかく冬の夜の寒さです。
各階廊下の端に石油ストーブがおいてあり、寮生は部屋の戸を開けて廊下から暖気をとろうとしてはいたものの、やはり廊下の端の石油ストーブだけでは無理があり。寮生は足温器等の暖房器具を各々を使って工夫していました。それにしても東京の冬はそれなりに寒かった。
私立は2月中旬から、国立は一期校が3月初旬、二期校が3月20日過ぎからの試験日でしたが、この時期は個人的にはまだまだ直前期という感じではなかった。今となっては懐かしい記憶となっています。
321 名前:午後部卒_上野◆Yzg0ODZk:2024/02/10 12:24
なつかしいです。私も上記、307_大澤氏と同期、昭和48年にお世話になりました。
英語の松浦、贄川、藤川先生
古文の中西先生
全員おぼえています。藤川先生は厳しい方で、講義中、教室内で新聞を読んでいた男をどなりつけたそうで。また、先生が京都の大学学生であった頃、進駐米軍に通訳として雇われたとか。当時から、英語が抜群であったのでしょう。それに「今の大学は、教授の頭をぶんなぐっても、学生をやめさすことなんかできないよ。」と言っておられました。
中西先生は、当時、成城大学の最年少教授であったとのこと。いつも、ユーモアあふれる授業でした。その後の、先生の御活躍は、皆さんご承知の通りです。現在も御存命で、最近、何かの記事で、元々胃が弱く、朝ごはんは食べない生活を 若い頃からずっと続けてきたと言っておられました。
特に覚えているのは、数学の小倉先生です。お歳から想像して、小倉金之助という ひと昔前の数学者の御子息だと推測しています。受験が迫った2月下旬ともなると、春には満席だった教室は、4名程の学生になっていました。私も、その4名の一人で、小倉先生の最後のお言葉、
「合格の点数は低いですからね。試験場では最後まで あきらめずに取り組んでください。」
とやさしく4名に呼びかけられたお姿、今も心に残ります
私も この予備校に行けたおかげで、某国立大学理学部に合格し、その後、公務員をやっていました。しかし後、依願退職し、今は不動産投資で ささやかな成功をおさめています。どんなにお金で成功しても、この予備校時代を思い出し、質素で堅い私生活を続けています。この予備校時代の若き日の経験は、私にとっても貴重な人間形成の場でした。この予備校に、今も感謝しています。
、
322 名前:黒田八郎:2024/02/13 19:01
1976年お世話りなりました.運よく第一志望合格し,昨年 大学を定年退職しました.
先ほど,yahooニュース(2024年2月13日)で
「囲碁アマ世界一の平田博則さん死去」
を知りました.
ひょっとして数学の平田先生でしょうか?
下宿していた先の大家さんが,平田先生は囲碁の大家だといっていたのと,薬科大の先生,検索に引っかかったご尊顔(ちょっと目の感じが怪しい)が一致しておりましたので.
ご冥福をお祈りいたします.
323 名前:匿名さん:2024/02/14 19:38
経歴や年齢から判断する限り間違いなく、平田先生です
約50年前に囲碁アマ日本一の平田博則先生と有名でした
ご冥福を祈ります
324 名前:匿名さん:2024/02/22 17:15
平田先生は1995年、世界アマチュア囲碁選手権戦で69歳の史上最年長で優勝されましたが、2011年には84歳で出場し5位の成績となった、との事。
84歳で、孫のような年齢の若者とも対戦され、堂々の成績を収めたという事が先生の人生に対する態度を現わし、又、それにチャレンジして実現されたところにこそ、平田先生の真骨頂があったのではないか。武蔵高等予備校にて先生のお声に接したものとして、せめてその精神を自分も見習いたい。
ご冥福をお祈り申し上げます。
325 名前:匿名さん:2024/03/12 17:08
平田先生ってまだご存命だったんだ、俺が習った半世紀近く前にすでに初老って感じだったからちょっとビックリ。目がいつも半開きだった印象。他にはナベツグと共産党嫌いの吉永先生が印象に残ってる、共産党の選挙カーが通ったとき「ああ、うるさいっ!」って苛立ってたw
326 名前:匿名さん:2024/05/05 22:23
平田先生、予備校から坂を降りていく途中にあった立ち食い蕎麦屋でそばを淡々と食べていたのを見たな。
昭和51年午前部国立文系クラスで勉強しました。
平田先生は行列を主に教えていましたね。
長生きしましたね。見習いたい。
327 名前:いろいろ:2024/06/02 15:19
まあ、いろいろありますが
まず、数学の吉永先生、
最初の授業で三角形の面積の公式を黒板の左上から右下まで並べてこれくらい当たり前とせこからはじまるのですが
驚くのは先生が大学の教授でなく某吉祥寺の高校の先生だったこと。
あと手書き問題集も作成されて間違いがあと一問あるがせいかしたらお土産をと言ったんですが見つからず。
中西先生、活躍はしるところ。ただ、古文でなく現代国語でした。なそは、第一回目から黒板に生徒が回答を書いて準備していたこと。先生じじ無しですよ
あと、大塚駅前のコウブタ便所ねはなし
武蔵が経営で厳しくなったのは都立の先生のバイトが禁止になってからではないでしょうか?
確か1980年後だと
一時公園のちかくにも校舎つくったような
藤川先生は英語の先生でもピンとされました。
やくは書いてきなさいと一言。
ただ、英語は苦労しました。お陰で2年もいました。
一年めに松浦先生の講義が良かったのですが
次のとしはおらず残念でした。
国語の小泉先生。間違いなら申し訳ないのですが、
z会の書籍書いてられたはずまた、絶版になってない
ロングセラー
てだ、謎は古文でなく現代国語だった
日本史は菅野さんはまだおらず、田名網、三浦両先生かな
三浦先生ね桃源郷 と藤原京のオチはまだ覚えてます。
328 名前:匿名さん:2024/06/03 11:15
誤植多すぎ↑
やり直し
それとも爺様は痴呆かい?
329 名前:匿名さん:2024/06/24 14:26
1990年代でしたが、こちらのおかげで現役で国立合格できました
良い先生がいらっしゃいました
330 名前:匿名さん:2024/06/29 13:25
みなさんの思い出を興味深く拝読しました。私は1978年度に武蔵高等予備校に通いましたが、はっきり覚えているのは現代文(現代国語)の中西進先生、世界史の堀敏一先生です。
中西先生の話は、みなさんお書きのとおり面白く、「人は言葉でものを考える」(言語なくして思考はありえない)ことなど、文学・哲学にかかわる基本的な原理を教わりました。のちに中西先生編の『万葉集』(講談社文庫)全4冊も入手しました。
堀先生は、午後に「世界史」をご担当でしたが、歴史上のもろもろのお話を織りまぜてくださり、予備校の一般的な授業とは一味ちがう講義でした。堀先生が明治大学の教授であることを私が当時から知っていたか、のちになって知ったか、記憶が曖昧です。「世界史」受講者は当初から10人〜20人ほどの少人数で、それも秋ごろから徐々に減ってゆきました。たまたま私はこの講義だけは缺かさずに出席していたのですが、年明けの最後の講義に出席したのは私ひとりになり、先生に教壇から「どこ(の大学)を受けますか」と尋ねられたものです。さいごに私は、あつかましくも世界史のテキストをもって先生の前にすすみでて、サインをお願いしました。堀先生はこころよく「講義の記念に 堀 敏一」と万年筆でお書きくださり、いまも私は大切に保存してあります。武蔵予備校を終えた年に上梓された『概説東洋史』(有斐閣)も、もちろん買い求めました。
I県の「6流高校」を出て武蔵予備校でボールペンを一日一本使い切るほど勉強して東大に入った受験生がいた、という話がしばしば出たのは、新垣先生の授業でしたか。
予備校の寮の調理師のお一方を、大塚の街の食堂の厨房でみかけたことがあります。その食堂が「モナ」であったような気もしますが、ちがうかもしれません‥‥‥。
331 名前:匿名さん:2024/07/20 14:38
暑い夏が巡ってくるたびに武蔵高等予備校の夏期講習会を思い出します。
当時の夏も暑かったが、心も熱かった...。
予備校の寮の調理師さんを大塚でみかけたのはモナだったと思います。あの味も忘れ難し。
332 名前:匿名さん:2024/07/28 20:35
一日一本のボールペンを使って東大に行かれた方は
記憶だとかの文豪の孫にあたる方
個人名は伏せます。
現在もお元気のはずです。
333 名前:匿名さん:2024/08/04 16:07
数学の吉永先生
受験の裏話をされてました。あきれたのは
数学の採点は翌日には終わっている。と一言
そしたら、模試の翌日数学だけかえってきたな
その吉永先生、吉祥寺の高校の先生だったとあとからわかる。
あと、数学は横田先生。確か都立高校の先生で
教科書の編纂もしてたらしい。べらんめえ調で
記憶にある。
教科書に二次方程式根と係数の関係を書かなくて版元から泣きつかれたはなしがあった
334 名前:匿名さん:2024/08/04 16:15
332追加
あやふやであるが、
引き算を間違えたぐらいのかたで、
何故だか都立新宿高校といったはず
新垣先生に御礼もいえぬまま、先生はたしか
2003年2月に亡くなられた。
ご自宅にお伺いして頭を下げてきました。