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【神戸の名門】大道学園について語るスレ

0 名前:名無しさん:2005/01/08 11:58
かつては毎年東大合格100人以上を誇った、関西随一の驚異の予備校。
御影の白亜の校舎・大道学園について語れ。
1 名前:名無しさん:2005/01/08 12:48
浪人生が全クラスで500人程度いました。
全盛期には、上位200番までが東大か、京大。
上位400番までが阪大、神大、早慶に合格したものでした。

この受験生の厚みは驚異的といって過言ではないと思います。
2 名前:名無しさん:2005/01/09 13:13
阪急の御影駅から見える白い校舎。
閑静な住宅街の中にそびえる品のある予備校でしたね。
3 名前:名無しさん:2005/01/14 15:25
柴田一夫先生はまだ生きてるのかな?
4 名前:名無しさん:2005/01/15 05:54
>>3
柴田一夫先生…すばらしい英語の先生でした。
あれは、平成元年の夏のこと、
三宮のそごうの地下でばったり英作文のY先生に出会ったので、
「柴田先生はお元気でいらっしゃいますか?」と尋ねました。
Y先生は「柴田先生はもうこの世にはいない」
奥様をなくされてから、柴田先生は気を落とされ、体調を崩されたということです。
とても悲しい思い出です。
5 名前::2005/01/15 17:15
そうだったんですか。柴田先生はまるで辞書のような先生でしたね。
私がお世話になったのは昭和61年度なので、その後間もなく亡くなったんですね。
「MUSTS」丸暗記しました。
私が在籍したクラスは、ろくに授業も聞かないくせにアンケートにワガママばかり書いて・・・
柴田先生は年度途中、授業を降ろされました。今思えば申し訳ない思いでいっぱいです。
6 名前:名無しさん:2005/01/16 04:59
柴田先生はMUSTSの著者でしたね。
通常の熟語集に比べて、内容が濃く、重厚な例文だったように思います。
今でも、使い込んでぼろぼろになったMUSTS、大切に保管しています。

英文解釈の授業で、テキストの講義に入る前に、
柴田先生は「MUSTS、MUSTS出して!!」
とおしゃって、MUSTSの解説をされてから、テキストの講義をされていました。
7 名前:名無しさん:2005/01/17 13:44
「MUSTS、MUSTS出して!!」
懐かしいです。受験生時代を思い出しました。

ところで、宇津木先生は今何をされているかご存知ですか?
8 名前:名無しさん:2005/01/17 14:51
宇津木博先生は、若手で熱血漢の数学の先生でしたね。
当時、神戸大学の大学院生だったと思います。

宇津木先生に習っていたのですか。するとあなたは理?か理?か医系クラスだったのですね。

宇津木先生、今どうしていらっしゃるのでしょうか。
9 名前:4=6=8:2005/01/18 15:24
実は私は別科(現役コース)の生徒だったんです。
当時の大道学園は、公立高校の定年退職者の再就職先や、神戸大学の関係者の
バイト先であったように思います。
英語の吉田先生や国語の松原先生は公立高校の定年退職者だったと思います。
ところで、本科には化学の小林先生や、英語の毛利先生など、その道の重鎮が
出講されていたと思うのですが、授業はいかがでしたか?
10 名前:名無しさん:2005/01/19 14:31
英語の毛利良雄先生は、1901年生まれ、当時すでにかなり高齢の先生でした。
「私は、諸君のおじいさんよりもっと、相当に年をとっています」
と、よくおっしゃっていました。

元灘高の先生で、昭和の初期から教職についておられたそうです。
「毛利良雄の大学受験シリーズ」の著書があり、授業でも使っておられましたが、
授業では独自のプリントを配布しておられました。
また、時間があるときは「難問テスト」を実施されていました。

毛利先生は
「私の講師料など、わずかなお金です。しかし私は大道英昌校長には大きな恩がある。
恩に報いるため、私は今でも教壇に立つのだ」
とおっしゃっておられました。
とても立派な先生でした。
11 名前::2005/01/19 15:09
黒い高級車で玄関先まで乗りつけ、運転手に誘導されながら
講師室へ向かっていた、杖をついたおじいさん(失礼!)が毛利先生だったんですね。

受付の方もすばらしかったですね。全生徒の顔と名前を覚えていらっしゃいましたね。

大道学園が大学受験予備校をやめた原因は、やはり大手予備校の神戸進出が原因でしょうか。
私としては「公務員受験予備校」になってしまったことは残念です。
12 名前:名無しさん:2005/01/21 14:38
私が通っていたころは、毛利先生はかくしゃくとしておられて、
杖はついておられなかったので、そのおじいさんが毛利先生だったかどうかは
わかりません(もしかしたら、晩年、杖をついていたのかもしれないけど)。
私のころ、杖をついておられたのは、名前は知らないのですが、日本史の先生でした。

事務の方々は本当に親切なすばらしい方たちでした。

駿台が大阪に来たころから、大道の黄金時代にかげりが出たように思います。
灘高の上位層が、大道に来なくなりました。
大学受験予備校をやめたのは、やはり少子化の影響だと思います。
平成12年に、新規受講生募集を停止しましたね。
この年は東京の研数学館が予備校をやめた年でもあるので、
有名老舗予備校の転換期だったのだと思います。
13 名前::2005/01/22 15:03
校則の厳しい予備校でしたね。
入学の資格に「喫煙の習慣のないもの」と明記されていたと思います。
また、「ノースリーブを禁止する。」、「廊下につばを吐いた生徒がいる。
今後発見次第、退学処分にする。」等の張り紙が記憶に残っています。
14 名前:名無しさん:2005/01/24 14:21
そうですね。規律のしっかりした予備校でした。
授業のはじめと終わりに「起立」「礼」がありました。

黒板を写すのに夢中になって、授業終了の「礼」に間に合わず、
書き終わってからようやく「礼」をする生徒が何人かいました。
数学の和田実先生は、後から「礼」をする生徒ひとりひとりに対しても、
きちんと「礼」をしておられました。

生徒に対して規律を求める予備校でしたが、先生も礼節を守っておられました。
15 名前::2005/01/25 10:08
>授業のはじめと終わりに「起立」「礼」がありました。
そうなんですか。別科ではしていませんでした。
一度、夏期講習が本科生と合同で行われましたが、そのときも「起立」「礼」
はなかったです。時期が違うのかな・・・。

別科の生徒は、私語は絶えなかったのですが、講師を人間的にも学問的にも信頼していたと思います。
派手なパフォーマンスを売りにする予備校とは質がまったく違ったと思います。

遅刻にも厳しかったですね。
遅刻者は一定時刻にまとめて職員に誘導されて、ベランダ経由で教室に入室していました。
16 名前:名無しさん:2005/01/26 13:40
私がいたころは、いわゆる夏期講習はありませんでした。
時期が違うのと、本科と現役生コースでは違ったのかもしれません。

ただし、柴田先生が夏休みに「東大英語の要約問題の解き方」の特別授業をして下さいました。
私は東大希望ではありませんでしたが、柴田先生の授業が好きだったので、
せっかくだから受講しました。
とくに受講料は必要ありませんでした。
現役生や外部性は募集せず、いつものクラスのメンバーだけでした。

私が大学へ進学したころに、大道の夏期講習がはじまったように記憶します。
どんな夏期講習だったのですか?
17 名前::2005/01/26 17:02
夏期講習は突然行われました。
確か6月の下旬頃夏期講習を実施するとの案内をもらいました。
受講料は1科目二千円程度だったと思います。
内部生だけで実施されました。
本科生と合同でしたが、別科生はあまり申し込まなかったです。

柴田先生は別科でも平日に無料で特別ゼミをされていました。
私も参加しました。
柴田先生の魅力って何なんでしょうね?
生徒と会話することはほとんどなくて、同じ雑談を繰り返したり、
質問しても耳が遠くて・・・。
でも不思議に惹かれるんですよね。私も大好きでした。
18 名前:名無しさん:2005/01/28 15:07
柴田先生は私が在学していたころからすでに耳が遠く、
補聴器をしておられました。

戦前は満州にいて、馬に乗っておられたそうです。
他の先生方も柴田先生のことを、とても尊敬しておられました。
ある数学の先生は
「柴田先生はすばらしい。人柄はいいし、能力はあるし」とおっしゃっていました。

柴田先生には英文解釈を習っていたのですが、様々な角度から解説されるので、
単語・熟語・構文すべてを学ぶことができました。

大道の本科では、朝、登校すると、先生が毎日交代で校門で生徒を迎えるという習慣がありました。
柴田先生は、日差しを避けるため、
いつも女性物のピンク色の日傘をさして、私たちに「おはよう」とおっしゃっていました。
19 名前::2005/01/28 16:52
柴田先生がピンク色の日傘で生徒を出迎える・・・
ほほえましい光景ですね。うらやましいです。
私は公立高校出身なのですが、私が入学する前までは「MUSTS」を英語の副教材として使っていたそうです。
ある日職員室で教頭が「私は柴田先生とは30年付き合っていて、
いまでも一緒に飲みに行く仲だ」って誇らしげにしゃべっていたのを覚えています。

私が教わっていた頃は体力的に限界だったのかもしれませんね。
夜の9時過ぎまで講義されるなんてすごいことですよね。
20 名前:名無しさん:2005/02/05 08:02
大道学園って、予備校をやめてから、「シニアサロン大道」というカルチャーセンターになっていましたね。
今は公務員予備校をやっているようですが、カルチャーセンターも続いているのですか?
21 名前:中年紳士:2005/02/05 23:49
まだありますよ;
http://www.ohmichi.ac.jp/culturesalon/

私は昭和48年卒です。ちょうど大道の理事の依頼があった直後に予備校を廃校することになったのです。

私らの頃は、東大・阪大クラスが別館で、京大・神大クラスと文系クラスが本館にありました。本館の食堂のカレーがなつかしいです。
22 名前:名無しさん:2005/02/06 03:27
>>21
理事就任の要請を受けられたのですか?
昭和48年というと大道の黄金時代に在学されたのですね。
予備校の運営はもういきづまっていたのですか?
現在はカルチャーセンターと公務員予備校の二本立てで経営しているのですね。

食堂のカレー、評判でしたね。カレー以外のメニュー、印象に残っていません。
「ザ・予備校」にも大道のカレーは紹介されていたように記憶します。
23 名前:中年紳士:2005/02/08 03:39
大道の時の同級生のF君(現在某国立大医学部教授)が長年理事をやってて
私にそろそろ代わってくれと言いまして、事務の大御所だったIさんからも
要請されて、就任を受諾しました。ところが、待てど暮らせど連絡がなく
半年以上経ってからIさんから詫び状が届きました。それで初めて行き詰っ
ていたのかと知った次第です。

大道学園という名前は創設者の大道先生が「大学」と略されるのを欲して
命名されたんですよね。今も忘れられないのは、受験に失敗して失意のどん
底にあった私の耳に飛び込んできた故大道先生の入学式の訓示の言葉です。

「君たちは来年大学に通るかどうか心配しているだろう。しかし、そんな
ものは一年間努力すれば通るに決まっている。通るかどうかでくよくよ悩むな。
何番で通るか、それを気にしなさい。」

この言葉は私にとってコペルニクス的転回となりました。

大道先生のカリスマ性はすごかったですね。
24 名前:名無しさん:2005/02/08 13:42
>>23
私のころは創設者・大道英昌先生はすでに鬼籍に入っておられ、ご子息の英治先生が校長でした。
しかし、先生方は折に触れて創設者の名をあげられ、
「先代には本当にお世話になった。自分は大道を離れるわけにはいかない」
と口々におっしゃったものです。
職員室には先代の御真影と校訓の「努力」の額がかかっていました。

事務のIさんはとても温かく、厳しく、立派な方でした。
窓口でテストを返してもらうとき、激励の言葉をいただいたものです。

今は二代目も校長を退かれ、当時副校長だったU先生が校長をされているのですね。
Iさんは今でも事務局にいらっしゃるのでしょうか。
大道は新規事業はうまく軌道に乗ったのでしょうか。
25 名前:中年紳士:2005/02/09 02:12
Iさんは今は退かれてワンちゃんと共に悠々自適の生活に入られています。
毎年ワンちゃんの写真の入った年賀状をいただいています。

先日、元理事のF君と電話で話したのですが、我々は大道学園には大恩がある、
大道の今後の成り行きについては陰ながら応援していると言っていました。

我々の頃はまだ国立一期校、二期校の時代でしたが、共通一次試験が始まった
頃から全国データを持つ大手予備校のシステム重視型教育に受験生が流れた
のでしょう。しかし、大道の根性論的やり方は決して時代遅れでもなんでも
なく、最後の最後にはその教育が意味を持ってくるとF君は語っておりました。

予備校の時の友人は、辛い時代を一緒に戦った戦友みたいなものですね。

それから、阪急御影駅の前にあった喫茶店でよくたむろしたものですが、
あれは今でもあるのでしょうか?
26 名前:名無しさん:2005/02/19 08:10
そうですか、あのIさんも引退されたのですか。

大道の栄光に翳りが見えたのは、創設者が亡くなった直後、
昭和59~60年くらいからではなかったかと思います。
このころから、東大・京大に行ける層が薄くなったように感じます。
また、優秀な英作文の先生を河合塾に引き抜かれたのもこのころだと思います。

大道の晩年、ホームページを見たとき、
合格実績を前年度ではなく、過去にさかのぼって累積で出していました。
「ああ、もう過去の栄光しかなくなったのか、もう幕が下りるのか」と悲しくなったものです。

喫茶店、行ったことないのです。ごめんなさい。
27 名前:まんぼう!:2005/03/21 15:20
昭和53年当時に行っていました。
数学の確か、山岡(石岡?)先生でしたか。
赤いフォルクスワーゲンで送ってもらってきていましたね。
28 名前:名無しさん:2005/04/01 13:24
朝、登校するとき、校長と副校長がそれぞれ黒塗りの高級車で通勤してこられたのが印象に残っています。
29 名前:名無しさん:2005/04/02 16:09
あの英語の小冊子が懐かしいです。ボロボロになるまでやりました。
たしか柴田先生の書かれたものでしたよね。
30 名前:名無しさん:2005/04/08 12:22
MUSTSのことですね。

数学では白石先生に大変お世話になりました。
元軍人で、背筋を伸ばした矍鑠とした先生でした。
当てられて答案を黒板に書くのですが、1学期のはじめごろは「こういう書き方は論理的でないね」と注意されたものでした。

「与えられた正解を理解するのはたやすい。難しいのはその正解をどうやって見つけ出すかだ」
という先生の言葉は、今でも印象に残っています。
31 名前:名無しさん:2005/05/05 15:48
MUSTS
32 名前:名無しさん:2005/05/06 12:04
ムッシュ
33 名前:名無しさん:2005/05/08 07:26
立派な人がおおかったんやな~
34 名前:中年紳士:2005/05/11 07:14
MUSTSの中に、あくびはうつる=Yawning is catching.というのが
ありましたよね。

あと、数学の石岡先生は昭和47年頃、「ジャネット・リンは可愛いのう」
と言いながら、汗を拭き拭き講義をされていました。

現国の垣田先生、実は甲南女子の教授さんでした。卒業後押部谷のご自宅
まで挨拶に伺った覚えがあります。
35 名前:名無しさん:2005/05/13 05:00
過去の栄光
36 名前:まんぼう!:2005/05/14 15:41
垣田時也先生の話は、とっても大きかったですね。

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