NO.10437374
創価大生に質問
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24 名前:匿名さん:2008/08/26 15:40
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>>24さんへ
先日の23のものです。しつこくレスをすることをどうかお許しください。
返答せずにはいられない気持ちになったのは、
まさしくわたしが抱いていた疑念そのものを23さんが感じていらっしゃった
と思ったからです。
はっきり言えば、アンチの方を非難することは全く正義ではないと思います。
ではなぜそれが、創価学会の性格として根強く残っているのか。
以下に、わたしなりの解釈を述べさせていただきます。
思うに、創価学会が内包する極めて閉鎖的・排他的な思想は、日蓮大聖人の教義への信仰心や、
宗教団体としての存続を堅いものにするための必要性から形成されていったものでしょう。
創価学会は草創期、病人と貧乏人の集まりと言われた団体です。
その多くは農村から出稼ぎのために流れてきた社会的弱者でした。
そういった、教育を充分に受けられなかった上に精神的・社会的に
強い不安に晒されていた人々に集団的・精神的安定性を与え、
組織としての機構を統治し、かつ拡大していくためには排他性は非常に有利に働いたであろうと推察します。
自分たちこそが正しいのであり、その自分たちを虐げる社会は敵であり、
なんとしても打ち負かし、仏法の正しさを証明する。
この思考(あるいはこれに類する考え方)が、おそらくは学会を拡大させる原動力になったのでしょう。
わたしは個人主義者なので、そういった全体主義的な組織のあり方には賛同できません。
また実際に、学会活動らしい活動はあまり行っていません。
何より、学会員ではない・学会に懐疑的だという理由だけで、他者と知り合い友人になれるかもしれないという人生の喜びを失いたくなどないです。
以上の心理により、わたしは所謂未活動家です。
それでも、わたしはこの信仰を捨てることは選択しませんでした。
以下のことはわたし個人に言える事実だということをどうかご容赦下さいませ。
思うに、日蓮大聖人や、心ある信徒、牧口先生、戸田先生、池田先生が望んできたのは唯一つ
「人間としての幸福」だと思うのです。究極目的が幸福であり、自己の幸福を確立するためには他者や社会の幸福もまた
必要条件であるという現実性に根ざした理想こそが、この信仰の本質だと解釈しています。
仏法といえども法。所詮は言語、文章によって組成されています。
完全に真意(この場合幸福)が、如何なる人間にも如何なる状況にも当てはまるように表現されることは前提として不可能だと思います。
社会は移ろい、人の考え方も変遷していくからです。
(また、わたし個人はこの事実から、絶対的な正義は社会的動物としての人間のあり方からしても成立しえない
という判断を下しました)
なので、現実の幸福という方向に仏法を解釈するという工程が、現在を生きる信徒には必要な手続きだと考えています。
解釈というものは悪くすれば教義を歪めることも考えられますが、現在生きている中で現実と直面しながらも信仰を貫くのは大善だと思うので
社会と自分の幸福という究極目的と、信仰の対象への誠実さと、客観性を踏まえた上の解釈は正当だと考えています。
何より、制約的・形式的な、下位に位置する教義によって究極的に追い求めるべき最重要項目とその達成への現実が
ないがしろにされるのは、それこそ不正義であると考えます。
以上の理由により、
かつて学会草創期に高潔な情熱および美徳として持てはやされた排他的・批判的態度は、
現在の教徒には不適切なものであると考えます。池田先生が海外でありとあらゆる宗教・思想・人種・国家・思想に属する
著名人と懇談を繰り返されているのも、こうした類の解釈をなされ、
「個人・国家・世界の平和と幸福」を究極目的とし、もって、ありとあらゆる人の中に仏性を見出し、
共に幸福になるべき同志とみなしているがゆえ、だとわたしは思いました。
学会員Pさんは、真実と正義を希求し、学会の全体主義的なあり方に身を任せないという
大きな勇気と自身の思想への誠実さ、そして賢明さを兼ね備えており
わたし個人としては大変に稀有な存在だと思っております。
この冗長な文章の中に一箇所でも、あなたの苦悩を和らげる文言があったのなら、わたしはとても嬉しいです。
乱文しつれいいたしました。