NO.10500362
哲学することってどういうこと?
-
0 名前:考える名無しさん:2001/04/12 11:41
-
「哲学を学ぶことはできない。哲学することを学ぶことができるだけである。」
というような有名な考えがありますよね?
しかし、哲学することってどういうことなのでしょう?
また逆に、
「哲学することを学ぶことは出来ない。哲学を学ぶことができるだけなのである。」
という考えもあります。
-
1 名前:神田解放区:2001/04/12 22:36
-
上の2つの違いを補足説明してください.
どう違うのですか
-
2 名前:考える名無しさん:2001/04/15 14:49
-
>2
あれ~?知らないの?
-
3 名前:考える名無しさん:2001/04/20 17:48
-
考えるっていう行為それ自体哲学。哲学って言葉があるのは、考えるって行為を
学問として捕らえたときに発生する言葉なんじゃない。だから、哲学という学問は
存在するようでしないのかもね。
-
4 名前:凡:2001/04/20 18:48
-
なあ、本当に哲学って「考える行為それ自体なのか」なのか?じゃあ、「英語圏の国の人とコミュニケーションが取りたいから、英会話教室に通う」とか陳腐な考えも哲学?いまいち解せない。哲学と考えることって同じことなんだろうか?
-
5 名前:匿名さん:2001/04/20 20:10
-
>>4
私の考えで恐縮だが「英語圏の~」ってのは的が
ずれているような気がする
物事Aの存在理由とか物事Bの存在意義とか物事Cとは何か
とかって感じのものでその物事はもっと抽象的なものだと思う
例えばよく言われる「美とはなにか」とか
まぁ、私個人の考えですので念のため
-
6 名前:凡:2001/04/20 23:40
-
>5
英語圏でもなんでもいいよ。そこに特に意味はない。そこじゃなくて、コミュニケーションというのは挨拶程度の日常会話が話せてそれだけで他者とのコミュニケーションが本当に取れているのかというところに哲学がいるんじゃないのってこと。英語圏がずれてるっていわれても主題と関係ないし。
-
7 名前:考える名無しさん:2001/04/24 22:27
-
4です。どうも説明足りなかったみたいね。考えることそれ自体ってのは、考え全般に対してじゃない。ましてや、コミュニケーションが取れているかどうかなんてことでもない。考えることは単純なことではなくて、6さんのいうようにもっと抽象的なものだよ。そもそも客観的に見て、普遍的な答えの出せるものなら、あまり哲学のカテゴリーに入らないと思うよ。
-
8 名前:7:2001/04/25 22:34
-
コミュニケーションは例えだよ。「コミュニケーションが取れているか」は哲学とは?の主題と関係ないよ。
-
9 名前:大学への名無しさん:2001/05/10 19:17
-
哲学って、どこまでが哲学だ!とは線を引くのが難しいですよね。
心理学や社会学など、19世紀の理性時代に哲学から派生して実証科学の仲間入りした学問は、
かなり哲学的側面も強いですし。
コミュニケーションについてハーバーマスが述べていたような気がしますが、
ハーバーマスについては名前しかしらんので、どう関係あるか知りません。
近代から現代まで考えると、
哲学は他の科学の原動力になってることも、しばしばありますね。デカルトやライプニッツしかり。
マルクス哲学もヘーゲル批判から出発してますし。
-
10 名前:匿名さん:2001/08/24 11:52
-
なんらかの既存の体系を疑うことが
哲学である、という認識もあるようです。
信ずるのが宗教、疑うのが哲学、とね。
-
11 名前:寝台冗漫社員:2001/08/24 12:06
-
11です。
さて、哲学は原義に帰れば「この世界の成立や生きること(生き方)について
根本原理を求めて考える」というようなことだったと。
私達が誤解しやすいのは哲学がそれ自身何らかの「学科目」であるという事です。
哲学科という「学科」が他の学科に並んであることに起因するんだと思いますが、
あれは先人の残した哲学の「歴史」を学び、継承していくというのが目的です。
哲学そのものは、先に述べた原義に帰れば、自分の世界観や人生観に影響を与える
もので疑いようの無いものすべてそう呼ぶことができ得るでしょう。
-
12 名前:匿名さん:2001/08/26 22:55
-
フンっ これが哲学なんだよね
-
13 名前:名無しさん@駿台:2001/08/29 03:36
-
「哲」って、何?
-
14 名前:杜 由希也:2001/08/29 18:17
-
>>13
哲=さとし
悟とか智、理、覚とは違うみたいだけど
-
15 名前:匿名さん:2001/08/29 23:22
-
よく、わかんないよー
諭とは、当然違うんだよね~
教えておしえて
-
16 名前:哲子:2001/08/30 19:25
-
趣味で哲学本格的にやってる人いますか
-
17 名前:匿名さん:2001/09/01 23:08
-
空想哲学読本(空想科学読本の類本)とかソフィーの世界とか読んでみてわ?
-
18 名前:匿名さん:2001/09/05 00:26
-
あれらは、観念論に基づいて書かれているもので
本当に自分の思想や生活について見つめたければ、
マルクスの「経済学・哲学草稿」「ドイツ・イデオロギー」を
よみましょう
-
19 名前:杉原同盟軍:2001/09/08 18:44
-
人生哲学、学問の哲学&他人の行なった哲学、及びその知識とかの問題かな、1は。
1のいう両者の立場はどっちも分かるんだけど、
学問的哲学と人生哲学は少なくとも混同しちゃいけない。
哲学って何? って大学で哲学やってても考えてたけど
ベルグソンの外から対象を記述するのが分析
内を直観しようとするのが形而上学(本当は哲学と混同しちゃいけないが)
っていうのを『形而上学入門』で見て、
これでいいかな、って思うようになってはきた。
ただその直観ってのは現象学的
(対象そのものを普段の自分の判断を停止する事でありのまま認識しようとする)
な立場ともいえるわけで、他の立場の人は怒りそう。
-
20 名前:別板別スレの4:2001/09/21 21:51
-
<哲学>は,本来は<希哲学>で,phirosophiaの直訳となっています。
philo=哲,sophia=希ですな。
西周(ニシ=アマネ)が作りました。
哲学とは何かと言えば,端的にはWas ist das?です(もちろん哲学の捉え方によるけど)。
「それが何であるか」ということです。
ものの本質を捉えようということで,ここでエッセンティアとエクシステンティアの2項対立が云々となるわけです(Heidegger)。
(こういう捉え方の)哲学は,Platonに始まってNietzscheで終わったと言える部分もあります。
スペル自信なし。
-
21 名前:匿名さん:2002/04/05 12:10
-
哲学は真です。
-
22 名前:匿名さん:2002/10/25 03:01
-
哲学とは愛知の学です。
-
23 名前:NO NAME:2002/10/26 12:01
-
>>20
>philo=哲,sophia=希ですな。
philo=愛、sophia=知、じゃないのか?
-
24 名前:某哲学科学生:2002/10/29 20:23
-
philo = 愛, sophia = 智 ですな。
#Sophia University なんてのも日本にあるか(w
日本の哲学が「哲学学」なんて揶揄されるのは不幸なことだと
思うんだけど、最初哲学が日本に紹介されたとき、誰も哲学が
どういうものなのか知らないで、これが西欧の最新の学問だ!!
なんて勘違い(?)した優秀な学生がやってきて、西欧の哲学を
輸入して紹介する、なんてのから始まったから、ああいうふうに
なってしまった、ってのが現状だと思う。
哲学ってのは突き詰めれば考えること自体だ、ってのには
同意するんだけど、だからといって哲学史に意味がないとも
思わない。自分の考えを鍛えるために他人と議論することも
あれば、その考えを昔同じことを考えた哲学者と戦わせることも
できるわけで、哲学は考えることにすぎないから、昔の哲学者
がどーこー言ったなんてことをやっている哲学学なんて意味ない、
っていうのは、みすみす自分の考えを深化させる機会を失っていて
もったいないと思うんだがなぁ。
ソフィーの世界はあまりにありえない哲学入門の気がするので、
ネタ以外で哲学に興味ある人にあれを勧めちゃいかんよ(藁
哲学は考えることだ、っていう立場から1冊入門書、ってのなら
中島義道「哲学の教科書」(講談社だけどいまは文庫に入ってる)、
もう片方の哲学入門としたら竹田青嗣「自分を知るための哲学
入門」(ちくま学芸文庫)かな。
まあ哲学しなきゃいけない(中島義道の言う意味での)人だったら、
こんな入門書読んでなくて原典(翻訳にしても)読んでるでしょう。
入門書に手を伸ばしている時点で(中島義道や永井均が言うところの)
哲学からは脱落しているんじゃなかろうか。
-
25 名前:心理学専攻:2003/01/14 01:48
-
カウンセリングを受ける人っていろんな理由があると
思うんだけれども、たとえばどう生きるべきかを考える
ためにカウンセリングを受けるって言うのは、哲学とは
違うものなんでしょうか。一人で何かを考えるのと
ただ頷いてもらうだけでも、人に話を聞いてもらいながら
考えるのでは、結論が違ってきたりして、そこがカウンセラー
の存在理由の一つになっていると思うんだけれども。
前ページ
1
> 次ページ