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秋田明大

0 名前:名無しさん:2009/03/20 03:12
1965年、崇徳高等学校卒業後日本大学経済学部に入学。
1966年、大学2年の時、サークル「社会科学研究会(社研)」に所属。
大学4年時の1968年5月27日、20億円を越える大学側の経理不正問題の表面化をきっかけにして、
それまでの学生弾圧体制に対して学生が立ち上がった日大闘争で全学共闘会議議長となり、
全国一の動員を誇った日大闘争を指揮した。
「ビラ配りもできない日大で学生運動を始めた男」「リーダーの名は、日大なのに"メイダイ"」。
その名はカリスマ性を持って瞬く間に全国の同世代の学生たちに広がった。
アジ(agitation)を得意とはしなかったが
「大衆」、「自己主張」、「自己否定」、「自然発生」、「大学解体」などの言葉を好んで使い茫洋とした
包容力で全国的に名を高めた。1968年9月、両国講堂で3万人の学生と共に古田重二良日大理事長・会頭を糾弾後、
潜伏。しかし大学側が導入した機動隊の前に次々と拠点を失い、翌1969年3月12日、公務執行妨害などの容疑で秋田が逮捕された。
これ以降全共闘運動は急速に衰退していった。

運動終息後は土木作業員、
自作詩集の立ち売りなどをする。
東京キッドブラザースの主宰・東由多加が秋田に興味を持ち交流を深め1975年、
東が監督した映画『ピーターソンの鳥』に主演した。
珍鳥を発見することだけに熱中する青年の話で、
悠木千帆とのベッドシーンや、鰐淵晴子、坪田直子とラブシーンなどもした。
しかし映画の評判が芳しくなかったこともあって東とは喧嘩別れする形となった。
翌1976年には、キングレコードからシングル「あほう鳥」(作詞は東と交流があった岡本おさみ
作曲は加藤登紀子。B面は「砂の唄」)を発売。
現在は郷里の広島県呉市音戸町に帰り、
自動車修理工場を経営している。
最初の妻との離婚後は生活が荒れ、数年前に結婚紹介所を通じて知り合った
20歳年下の中国人妻と再婚し、4歳の息子と3人暮らし(産経新聞2008年5月)。
過疎化が進む島で経営状態は良くないという。

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