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兄弟校(日大×國學院大)

0 名前:名無し:2007/03/07 03:02
本当に國學院と兄弟校なんだ、日大のHPに書いてあるね、だから日大と國學院の学生は
悪く言わないんだ、他校から見ると羨ましいね。
両校とも名の売れた伝統校だし、他にも兄弟校関係大学はあるのかな?
1 名前:名無しさん:2007/03/10 10:44
お互いの大学首脳部が毎年交互に相互訪問して
懇親を深めています。
2 名前:常識として覚えておこう~:2007/03/10 10:46
國學院大学と日本大学は創立者が同じ山田顕義先生。
法律を学ぶ学校として日本法律学校(日本大学)
歴史文学を学ぶ学校として國學院大学を創設したのであった。
3 名前:名無しさん:2007/03/10 11:26
1885年 皇典講究所設立 →國學院、日大の前身
皇典講究所は有栖川宮幟仁親王の令旨により設立、山田顕義が創設尽力
日本法律学校は、皇典講究所から校舎の使用を断られ、←これは山田が死んだから?
明治29年6月に神田区三崎町に校舎を新築した。←明治29年まで皇典講究所の中に法律学校があった。
日大も立命館ばりに捏造すればかなり日大の歴史を長くすることができる。
対して國學院は、皇典講究所から出発ということになっている。
山田がもう少し長生きしていれば、國學院も日大も今よりよかったかもしれない。
返す返す山縣との仲が原因だったのかな。。。
松下村塾出身の学校って國學院、日大、獨協になるのかな?
獨協の前身は松下村塾門下生の品川弥次郎が作った。
>獨逸学協会学校は、吉田松陰の愛弟子である品川弥次郎により創立されたとおり、松下村塾の正当な継承者でもある。
愛弟子は久坂と高杉、山田あたりだと思うが、品川もその一人には違いない。 伊藤は愛弟子ではないし、
伊藤も出身ということをあまり語っていない。が、その恩恵を山縣と共に一番あずかっている。
また、吉田松陰が実際教えていた時期は数年でしかないが、松下村塾は松陰が生まれる前から存在している。
西園寺を持ち出す立命館のように捏造するなら、松下村塾設立からでもよいことになる。
ということで、國學院、日大、獨協の前身は松陰が再開させた松下村塾の年(1856or1857)か、
松下村塾が設立された年(不明)
4 名前:名無しさん:2007/03/10 12:15
なにココつまんねーの
特に4なんかは
5 名前:名無し:2007/03/11 08:08
両校の関係は日大生の殆どが知ることじゃないか?
國學院生の多くはどう思っているかしらないが、両校の学生は仲がいいんじゃない。
古い大學(創設)ならでわの関係で、これからも大事にして行きたい間柄だと思う。
6 名前:名無しさん:2007/03/11 09:04
私は日大医学部生だが、父親が國學院大学卒、母親は学習院大学卒で、親に聞いてみたとこ
途中に国法を専修するため皇典講究所機関内に夜間部として法学を専修する場ができたらしい。
皇典講究所は元々の国史、国文、を学ぶために皇族の方々のお力添えでできた学校。
そして国史、国文、国法を専修するための國學院の構想がねられやがて国法を学ぶ機関として日本法律学校ができた。
山田顕義は国法を専修する場として、努力していたが、急死してしまい
本来の國學院 国史、国文、国法の国法の部分が欠落してしまい。
皇典講究所の国史、国文の精華しか國學院に継承されず。
途中から研究された国法の部分は日本法律学校に反映された。
皇典講究所からの国史、国文の研究の精華は直に國學院に継承され
途中から行われた国法研究分野は日本法律学校校長山田氏が学祖となり、今の日本大学がある。
よって国史、国文の研究の精華が継承されている (國學院大学)
と初めて国法を出発とする(日本大学)
は明らかに研究が違く日本大学の前身は皇典講究所とは云うことはできない。
しかし國學院大学と日本大学は兄弟校には間違いなく。
今でも両校は繋がりをもっている。
この話は俺のお爺さんの話で、ちなみにお爺さんも國學院大。
母方のお爺さんとおばあちゃんはなぜか二人とも学習院大卒です。
 
7 名前:名無しさん:2007/03/12 12:35
「正姿黙想」吉田松陰が山田顕義に与えた教訓(山田顕義は日本大学の学祖)
・立志の教え
 日本大学学祖・山田顕義先生に与えられた吉田松陰先生の教えは、日本大学の学風の基礎となり、それはそのまま、日本大学の教育指針となっている。
 毎日朗唱されるこの教えは、日本大学に学ぶすべての学生に、志を高くし一日の完全燃焼を求めるもので、生徒一人一人に語りかけられるものである。
 毎日 「正姿黙想」の時間を設け朗読される朗唱句を精神統一し、一日の完全燃焼を誓い、1時間目の授業に入っていきます。

立志は特異をとうとぶ 俗流はともに議し難し 身後の業を思わず しばらく目前の安きをぬすむ 百年一瞬のみ
君子粗餐することなかれ
8 名前:名無しさん:2007/03/18 03:28
皇典講究所は、明治15年に当時の麹町区飯田町(現在の千代田区飯田橋)に設立されました。
 その後、明治22年に山田顕義を筆頭発起人として日本法律学校が開設され、また山田はさらに明治23年には皇典講究所の事業を拡張し、日本文化を研究するための國學院を設立しました。
 日本法律学校は明治28年に西神田に移転、さらに同36年には日本大学と改称し、現在に至っております。
 また、國學院は大正9年に大学令による大学に昇格後、大正12年に渋谷に移転、現在に至っています。
 山田顕義によって開かれた両校の発祥の地を示す碑は、東京区政会館前に建立されています。
http://www.oidemase-t.jp/touch/yukariplace/10kouten.html
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