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寺子屋の伝統の復興を望むスレ

0 名前:名無しさんを押してくれる風がある:2010/03/08 01:46
嘗て、我々の先人達は、中国の古典たる書物から膨大な富を受け取っていた。
1867年明治維新以降、欧米文化が大量に流入、加えて1945年第二次世界大戦敗戦以後、
漢文教育は蹂躙され、頓に衰退。代わりに英語が台頭したのだ。

現代日本人は頻りに英語を持ち上げるが、果たして現代日本人は、
嘗て漢文から受け取っていた富を、現在、代わりに英語とかいう語学から受け取っているだろうか?
何か悩みを抱えた際、人生に疑問を抱いた際、我々を導き、励ましてくれる英語の言葉が、
一体どれ程我々の頭の中に収められているだろう?―

江戸時代、日本人の多くは漢学塾や寺子屋を通して漢文を学んでいた。
その際、学習法として実践されたのが、所謂 素読というやつである。
また、明治の大文豪 森鴎外は、5歳から漢文の素読を始め、9歳までには
儒家思想の重要な古典『四書五経』や、歴史書『史記』『漢書』などを素読していた。
だからこそ、ドイツに留学した際、彼は目に入る新奇なヨーロッパ文物を、
膨大な漢語を駆使して貪欲に消化出来たのである。

漢文の素養と欧米の学問。近代日本を築いた学歴貴族たちの教養は、常にこの二本立てであった。
このことからも解るように、現代日本でも、漢文が貴公子の嗜みであることは言うまでもないだろう。
今こそ、帝国大を受験する学歴貴公子達は、素読を実践すべきなのである。
1 名前:名無しさんを押してくれる風がある:2010/03/09 10:43
糞スレ終了
2 名前:名無しさんを押してくれる風がある:2010/03/13 18:23
寺子屋では和算や諺なんかも教えてたみたい。

寺子屋シリーズ『親子で楽しむ こどもことわざ塾』購読したけど、
ことわざ100個ぐらいあったの全部覚えたぞw

河合のサブでは何回挑戦しても挫折してたのに、テキストが替わると、
こうも簡単に修められるもんなのか…

河合のサブは、日本語検定教材と寺子屋シリーズ、『日本近現代史を読む』
をモデルにして、一刻も早く改訂しやがれw レギュラーと各講習ごとにテキスト分ければ、
こんぐらいの分量どうってことないし、生徒もテキスト欲しさに受けるようになる筈。

大体、近代の背景知識も無い奴にポストモダン読めるとでも思ってんのかよw
そこを考慮してセンターで日本史取る奴、文系なら結構いるだろうが、
近代から教科書読み始める馬鹿なんていないだろ。

そこら辺は予備校なんだからちゃんと配慮しろよ。
近代史は現代文という科目でもやらせるべきなんだよ本当は。
3 名前:近世民衆の教育要求と寺子屋 ◆m.ClQ03k:2010/03/14 02:12
”子弟の教育は耕作と同じだ。大根を太らすには米糠を用い、漬菜を繁茂させるにはフスマを用いるように、
それぞれの目的に応じ、種に応じなければならない。”

上州赤城山の麓にあった九十九庵という寺子屋の師匠、"船津伝次平"はこのように述べている。
教育は、一人ひとりの子供の個性や発達段階に応じなければならないのである。

彼の『弟子記』には、弟子一人ひとりの必要性に応じたカリキュラムが記されている。
彼は、1838年~1872年まで、35年に亘って150人の"寺子"に教えたそうな。
年齢は7~15歳ぐらいで、1863年の場合、在籍していたのは30人。
15人が寺子屋のある村の子供たちで(他は近隣の村々)、これは同年齢の子供のほぼ5割である。

近世の庶民は、寺子屋で文字の読み書きを学んでいた。寺院の師弟関係から始まったため、
寺子屋という名称がついているが、元は「手習」といった呼び方が一般的であった。
寺子屋では、師匠が字突棒を用いて素読を指導し、往来物に倣って練習帳の「草紙」に文字を書いて覚えていた。
教科書にあたる往来物には、生活に必要な実践的な知識や、社会で重視されていた道徳が記されていた。

子供達の年齢はバラバラで、大きな子が小さな子の師匠代わりを務めることもあった。
一斉教授ではなく、年齢,学習進度,必要性に根差した教育内容に応じた個別指導が中心であった。
机(天神机)の向きもバラバラ。

都市部の師匠には、町人や家計の苦しい武士が就くことが多く、今でいうところの予備校講師である。
農村部では、僧侶,農民,神職,医師などが師匠を務めていた。
文字の読み書き、基礎的な学力の習得、人格形成を中心に、それぞれの子供に見合った
学習カリキュラムが組まれていたようである。
4 名前:名無しさんを押してくれる風がある:2010/03/14 02:20
近世は、生業がイエの相続によって決まる身分制の社会であるから、勉強によって立身出世しよう
という意識が生まれにくかったと言える。
しかし他方では、文字・文書が重要な役割を果たす社会であった。
村請制の下では、村の指導者にとって文字の読み書き能力は不可欠であった。

さらに、商品経済が広がると、都市では貨幣の計算、各種帳簿の記載&判読が必要になった。
農村でも、農業生産・農間余業で 読み書き・算用の必要性が高まったのである。
また、村政への参加欲求や、文化的な欲求の高まりを始め、社会的な活動・交流の広がりが
人々の学習意欲を掻き立てたと言える。

加えて、近世後期には出版技術の発達によって多くの書物が出版され、文字文化が発達。
人々は読書を楽しむようになった。こうして寺子屋への就学率が高まり、
庶民の識字率も高まっていった。それが農民文化・地方文化の展開を支えることとなったのである。

―『日本近現代史を読む』宮地正人監修 ―
5 名前:名無しさんを押してくれる風がある:2010/03/15 13:08
糞スレ終了

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